全日本実業団自転車競技連盟 沿革

 戦後、国内のスポーツが大きく改組し、1945年(昭和20年)に日本自転車競技連盟が再編成された。第1回国民
体育大会(1946年)より、自転車競技が正式種目として採用され、1948年(昭和23年)にプロスポーツ「競輪
」が初めて開催、選手育成などの国内自転車競技の発展に大きく寄与し、16年後の1964年(昭和39年)に国をあ
げて開催された東京オリンピックにより、テレビ放送の影響が国民の関心を呼んだことで、自転車競技が「自転車競技=
競輪」だけでないという認識が広まった。
 そんな中、学校の自転車部を卒業した学連OBや、東京オリンピックを目標にして競技生活を送ってきた選手の今後の
競技生活維持、そして後進の育成と次期オリンピックへの土台を築くための必要性から、社会人自転車競技者の受け皿と
して自転車関連企業が乗り出してきた。すでに当時、国内トップクラスの選手が関連企業に在籍し、自転車競技選手とし
て全国大会などに参加していた実績から、愛好者を集めチームを編成し活動を始めていた。
 このように、自転車競技の社会人層への広まりは自転車関連企業を強く刺激し、自転車競技の振興は業界発展の宣伝に
なると前向きに検討され、競技環境作りを実現するため業界をまとめていた(社)日本自転車工業会の幹部(各企業のトップ)
が発起人となり、連盟設立の準備に入った。
 さらに、実業団自転車競技連盟の基礎となった企業チーム対抗ロードレース「第1回自転車業界親睦ロードレース大会
」が千葉県船橋市で開催され、この大会開催に参加した選手などが連盟設立の呼びかけに応じられる体制にあったこと、
そして業界以外の企業や、自転車愛好者のグループも加わることとなり、1967年(昭和42年)3月23日に、実業に携わる
自転車競技愛好者を対象として「全日本実業団自転車競技連盟」が発足、以下の趣旨を掲げた総会が開催された。

”本連盟は自転車競技を通じて産業人の体位向上と明朗精神の気風を職場に浸透せしめ、
生活の健全化と各層の親睦をはかり、わが国スポーツならびに産業の振興に寄与する”
設立当初の参加加盟団体は35(東日本25・西日本10)。
初代理事長は寺見 守氏(光風自転車)、以下理事15名・監事2名。
この総会の2日後には弊連盟の創立記念大会「連盟創立記念大会ロードレース」が親睦ロードレースの開催地と同じ船橋
市で開催され、59チーム・129名が参加した。この大会は翌年より大会名は「全日本実業団対抗サイクルロードレース」と
なり、アマチュアスポーツ団体としては初めて通商産業省(現:経済産業省)より「大臣旗」の下賜を受ける。
 当初、設立年にはロードレース4大会、トラックレース2大会の計6大会という事業内容であったが、社会人の自転車競技
への参加の熱望は強く、日本自転車工業会所属メンバーの企業チームの応援を得て、特に下記の6大会は長く開催されて
おり、今日まで続いている。

*東日本実業団自転車競技大会(トラックレース)
*西日本実業団自転車競技大会(トラックレース)
*全日本実業団自転車競技選手権大会(トラックレース)
*東日本サイクルロードレース大会
*西日本サイクルロードレース大会
*経産大臣旗争奪・全日本実業団対抗サイクルロードレース大会
 1970年代に入ると、自転車企業のチーム強化の動きにより、実車連登録チームに所属する選手達がオリンピックや
世界選手権大会へ出場し、好成績を挙げるようになる。特に1973年(昭和48年)に実車連より初めて海外選手派遣
(米国グランプリ自転車競技会)を実現。そして設立当初から開催を継続しているトラック・ロードの両種目の実業団選
手権(中央大会)の開催は、このような海外大会を目指すだけでなく、国内制覇の目標を確立させた。

 この頃、1970年(昭和45年)の定時総会において第1回の役員改選を行ない、第2代理事長は黒岩 登氏(ブリ
ヂストンサイクル株式会社)となった。この後1974年(昭和49年)の改選で3期目を迎えたが、日本自転車工業会
の理事長の座についたため、任期半ばで辞任。翌年の総会で第3代理事長として吉田 近志氏(日米富士自転車)が
引き継いだ。その後、さらに翌年1976年(昭和51年)の改選で三村 義氏(宮田工業株式会社)が就任、第4代理事長
となった。
 その後1978年(昭和53年)の改選で、第5代理事長は宮田 朝夫氏(宮田工業株式会社)が就任、加盟登録団体
数が121チームとなったこともあり、副理事長を3名とし、そのうち2名が東日本支部長・西日本支部長それぞれの兼任
をすることとなった。
 1980年代では、モスクワオリンピックが中止になるアクシデントもあったが、一方で1982年(昭和57年)より
「国際サイクルロードレース」が開催、その後、この大会は1996年にロードレースがプロ/アマオープン化された
ことにより、ヨーロッパなどのプロチームの参加が許可されるUCI(国際自転車競技連合)登録大会「ツアー・オブ・
ジャパン」として引き継がれ、今日も開催されている。
 実車連も、このようなレースの国際化に伴い、大会事業を増加。1983年(昭和53年)にチームタイムトライアル
ロードレース、さらに1984年(昭和59年)に一般公道を利用した福島県西部の3町を周回するロードレース開催を
実現させた。チームタイムトライアルは、世界選手権やオリンピックの正式種目であり、一方の一般公道利用のロードレ
ースも競技者の憧れであり、この2つの事業の立ち上げは実車連のロードレースに取り組む前向きな運営として高く評価
された。この大会により沿道での観衆の動員、地元やマスコミによる自転車レースの紹介などで活況を呈した。
 1990年代は、プロ自転車選手といえば日本では競輪選手と、それ以外でロードプロ選手といえばヨーロッパで活躍
していた市川 雅敏氏と、競輪選手で全プロロードに出場している一部選手しかいなかった。しかしアジアで初となる世
界選手権大会が1990年(平成2年)の日本開催が決まり、プロカテゴリーのロード部門へのエントリーは、開催国と
して実現必須となった。そこで、実車連登録チーム所属選手でロードに実績のある選手にも転向を要請し、これに呼応し
て数名の選手がプロ入り、ここにロードプロ選手が誕生した。
 実車連での主催大会も幅を広げ、クリテリウムレースの開催や、1990年(平成2年)第24回通産大臣旗争奪・全
日本実業団対抗サイクルロードレースでは、京都府美山町の一般公道を1周16km強で走行する本格的なワンデーロー
ドレースを実施。さらに同じ年の全日本実業団自転車競技選手権大会では、初めて競輪場(京都府向日町)を使用し、
1992年(平成4年)からは、プロのみでおこなわれていた「ケイリン」種目を取り入れた。1993年(平成5年)には
トラックレースも世界選手権がプロ/アマオープンとなったが、その先陣をきっての実車連でのケイリン開催は画期的
なこととしてアピール、実業団トラックの健在を示した。
 役員は1992年(平成4年)に第6代理事長として竹重 昇氏(ナショナル自転車)が就任、
理事には大会開催時、競技役員として永年に渡り運営に協力していたメンバーが揃い、大きな期待が寄せられた。さらに
この年には、実車連登録チーム数は147チーム、登録選手数は700名を大幅に超えていた。そのため事業の拡大も考
慮しなくては期待に応えられない状況になったため、理事を中心に実務面でのスタッフの選出で「運営委員会」を立ち上
げることとなった。
 1994年(平成6年)には実車連チーム/選手のランキング設定をスタート、個人ランキングとチームランキングと
いう基本形は、この頃に既に確立され、現在も改善しつつこのランキング制度は運用されている。そして2006年から
は「サイクルロードレース ジャパンツアー(通称:Jツアー)」制度がスタート。UCIプロツアー制度を手本としつつ、
トップ選手の意識向上と自転車競技の更なる社会認知を狙い、好反響を受けている。
 1996年(平成8年)は、実業団連盟は(社)日本自転車工業会(現在の(社)日本自転車協会)より事務局を独立、
第7代理事長に柴沼 正一朗(ブリヂストンサイクル株式会社)が就任し、現在に至っている。

2006年(平成18年)現在の登録チーム数は181チーム、所属選手数は1600名を超え、
事業大会数はロードレース12大会(別途:普及大会6大会)、トラックレース4大会となっている。
以上   
<理事長歴任表>※敬称略    
着任 名前
1967年(昭和42年) 初代理事長 寺見 守 光風自転車
1970年(昭和45年) 第2代理事長 黒岩 登 ブリヂストンサイクル株式会社
1975年(昭和50年) 第3代理事長 吉田 近志 日米富士自転車
1976年(昭和51年) 第4代理事長 三村 義 宮田工業株式会社
1978年(昭和53年) 第5代理事長 宮田 朝夫 宮田工業株式会社
1992年(平成 4年) 第6代理事長 竹重 昇 ナショナル自転車
1996年(平成 8年) 第7代理事長 柴沼 正一朗 ブリヂストンサイクル株式会社
  

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